伊藤耕平・高宮宏之 二人展「振動、放射、反響」

絵画の展示をします。友人の物書き高宮君との二人展です。自分たちにとって初めての自主展示なので準備やら制作やらで忙しくさせてもらってます。私はアクリル画を、高宮君は小説を展示します。自分たちにとって夢の第一歩です。

こんな感じの…

テーマ…というほどでもないけど、絵に込めたいのは、「思い出の感触」みたいなものです。私は昔のことってけっこう覚えている方なんだけど(律儀に日記も残しているし)、でもそれは場所や話した内容などの“情報”であって、そのときの気持ちや感傷みたいなものは年々薄れていっており…

学生の頃の、サークルの部室であてどもなく過ごした夏の日、外ではセミが鳴いてて、明日も昨日も無く、何者でもなくただ漂流していたあの不安なような自由なような気持ち…甘酸っぱかったり青臭かったりするが豊饒な瞬間が流れていた。今やそんな瞬間の感触は少しづつ鮮度を失ってきている。そのことに焦りを覚えている。

私の絵はアクリル絵の具をペインティングナイフで紙に直接塗り付ける手法で描かれている。調べたわけではないが、そんなに珍しい手法ではないだろう。これは大学3年の頃、サークルの演奏会のポスターを描くために編み出した、というか突然やりはじめた手法である。

大学3年の頃、部室近くにて

30も半ばになった今でもこの手法で描いている。抽象と具象はこだわっていない。描く中で過去の自分を発見するような気がする。一筆一筆があの日々の一瞬であり、描き上げた一枚は永遠である。

私は個人的な感傷をもとに描いているが、高宮君はまた別の位置から小説を書いている。彼が書いた本展示の序文から一部記す。

音楽は、生まれては消える泡のように、弾いているその瞬間にだけ存在している―――。
はたしてそうなのだろうか。
夜中に聴くともなしに聴こえる耳鳴りは、ただの耳鳴りでしかないのだろうか。

弦の振動は、どこまで放射され、いつまで反響するのか?

私と彼は切り口は違うが、表現したい根本のところは同じ方向を向いている。絵と文、この両者の響きあいを見てもらいたい。

 

伊藤耕平・高宮宏之 二人展「振動、放射、反響」

2019.8.3(sat)11:30-19:00

gallery+cafe blanka(名古屋・丸の内)

http://www.blanka.co.jp/gallery

 

8月1日より展示が始まるのですが、実は一般開放は8月3日の一日のみになります。8月1・2・4日はギャラリーで名古屋ギター講習会という音楽イベントが開かれ、そこの壁面を飾らさせていただき、参加者の皆様にご覧いただくかたちになります。イベント主催者の生田直基君にはお声がけいただきまことに感謝いたします。会場のblankaもすばらしいカフェ&ギャラリーです(ワインと食事が美味!)。イベント開催日もタイミングによってはギャラリー観覧可能ですので、カフェでお茶でも飲みながらお待ちいただければと…。

書評『ならず者たちのギャラリー  誰が「名画」をつくりだしたのか?』著:フィリップ・フック

有名なオークション会社『サザビーズ』の重役が綴る美術品とそれを扱う画商の歴史。このテーマ、ともすれば学術的でお堅い内容になってしまいそうで一見触手が伸びなさそうではあるが、本書のカバーデザインがそんなことは無いと伝えてくれる。カバーに用いられている絵はモディリアーニの『ポール・ギヨームの肖像』。ポール・ギヨームはモディリアーニを扱った画商である。不敵な表情(モディリアーニの描く人間は大体そんな顔をしてる)のギヨームが眼を惹き、その傍に程よく大きく「ならず者たちのギャラリー」とある。まるで映画のポスターのようなインパクト。この本はお堅い本じゃなくて刺激的な本だよ…と伝えてくれる。モディリアーニもさることながら、担当されたデザイナーさんにも拍手である。参考にさせていただきます(調べたら百戦錬磨の御方だった…ひえ~っ)。

画商というのはやはり商人であり、どうしても金に目ざといというイメージがあるが(実際そうだとしてもなんら悪いことではない)、一方でアーカイブを作成するなどの文化機関としての役割、そして美術の新しい歴史を切り開くパイオニアとしての役割も担っている。本書ではそんなパイオニア的な画商が登場するが、彼らの生業における手練手管が面白い。

19世紀後半のパリにて、モネやマネ、ドガらサロン(官展)から遠い位置にいる彼らを見出して支援した印象派のプロモーター画商デュラン=リュエルは、ニューヨークでモネの新作絵画展を開くと発表したのち、オープン1週間前に急遽展覧会をキャンセルした。その際にプレス向けに出した説明が秀逸である。

10万ドルの市場価格をもち、そして3年にもわたる絶え間ない仕事の成果を示す絵画群が、昨日、クロード・モネによって破壊された。なぜなら、彼自身がその作品に満足がいかないという確信にたどり着いたからだ。…デュラン=リュエル氏は、「ニューヨークタイムズ」紙の通信員に、すでに告知していたように展覧会を開催できないことに自信ももちろん失望しているが、その一方でモネ氏の行為は、彼が芸術家であり、単なる製造者ではないことを示しているのだと語ってくれた。

これが仮にモネが遅筆で展覧会に間に合わなかった場合のごまかしだとしても、これは上手い。モネは本物の画家であるという評判を与え、市場における希少性も演出し、市場価格を上げるウルトラC的な手立てである。そして次回の展覧会において展示された作品はモネの満足のいくものだというセルフお墨付きも発生するオマケ付きだ。

サザビーズの元会長ピーター・ウィルソンはオークションのイメージを大きく変えた。その手法も面白い。

まず従来は日中に開かれていたオークションを晩に遅らせ、参加者には盛装のディナー・ジャケットの着用を義務づけることでオークションに高級感と非日常感をもたらした。それまでのオークションはどちらかというと破産管財人が開くような、在庫の処理みたいな印象を持っていたが、高級人士がつどう憧れの場に変えたのだ。そしてオークションで最低保証価格を下回ることが無いよう(下回ると損失が出るだけでなくオークションの権威にもかかわるからだ)、サクラの参加者をもぐりこませることも忘れていなかった。

他にも数々の画商たちがあの手この手を繰り出しており、思わず感心してしまう。とはいえブログに書ききれない&忘れてしまったのでここには記さないけど…

 

 

実は私は大学で美術史学を専攻していた。卒論は『印象派の画家と画商』という題目で書いた。なぜ今現在高値の付くゴッホは生前売れなかった?という疑問から発生したこの題目だが、ある意味では私の進路を決定づけてくれたのかもしれない。ゴッホ(印象派ではなくポスト印象派ではあるが)が商業的成功を収められず、モネやルノアールが成功をおさめられたのは画商の尽力があったんだよ、というのが私のショボい卒論のショボい帰結であるが(学部生の卒論なんてそんなもんだ)、今やっているデザインの仕事も同じようなもので、デザインはクリエイティブな職種ではあるが、実は元となるコンテンツや製品を作っているわけではなくそれらを広める・伝えるための広告なり雑誌なりを作っており、デザインという切り札でクライアントをプロデュース・コンサルティング・プロモートするこの仕事は、作品を売るために奮闘する画商のようでもある。私は本書に登場する画商のようなしたたかさは無いが、クライアントの真価をデザインで世に伝えるぞという情熱は、惚れ込んだ画家を世に広めんとする画商と同様のものであると自負している。

 

 

大学で学ぶことというのは実は18歳そこらの若僧にはもったいないのではないかと思っている。私の専攻の美術史にしても、作品だけ見ていればいいわけではないし、どうしても人間というものを知っていないと分かりようもなく、それはやはり…難しい(ちなみに作品を見るのもまったくのナイーブでは分かりようもない)。社会に出てそれなりに経験を積んだ今、学問というものをもう一度やり直したい気持ちがある。

渡辺良 RYO WATANABE 1936-2017

昨年逝去された画家・版画家、渡辺良氏の回顧展が本日より元麻布ギャラリーにて開催される。

氏は主に60~80年代のニューヨーク、それもソーホーというとにかく面白く刺激的なエリアで活動していた。その作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)やホワイトハウスにもコレクションされている(こちらからMOMAの氏のページにアクセスできる。残念ながら肝心の作品イメージは掲載されていない)。またSol Lewittの助手を務め、超名門Pratt Instituteで講師もしていたと聞く。

氏の作品は日本人離れしたシャレ感が漂う。奔放に描いても濁りや奢りといった要素を感じさせない洒脱さはNY生活のせいもあるだろうが、生来のもののように思える。今回はリトグラフ代表作”Undressing woman”シリーズをはじめ油彩などの紙作品を展示し、まさに回顧展と言った彩りを見せる。私も設営を手伝ったが、ホワイトキューブ空間に作品が飾られると何というか、場がふわっと薫るような、何か空間に意味をもたらされたような感じを覚えた。

また額縁にも注目していただきたい。今回展示に使われているいくつかの額縁は氏の手製である。ミニマルだが手仕事の良さがちゃんとある。この額を越えるものを私は知らない。生前塗装の製法を聞いたことがあるが、愚かなことにメモを取ることを忘れていた。

 

 

彼は私が上京して一番最初に出来た友人だった。歳は離れていたが、先生とか先輩というのも何かしっくりこない。

彼は地方から出てきた右も左も分からない私にいろんなことを教えてくれた。まだ見ぬ世界への扉を開いてくれた。アートだけじゃなく文学や音楽、さらには酒への扉を開いてくれた。彼から説教くさい話は聞いた記憶が無く、いつも2人彼のアトリエで酒を飲みながら他愛のない話ばかりしていたが、絵を描くことを志していた私が一度「絵で大切なことって何?」と聞いた際、彼はふとまじめな顔になり、絞り出すような話し方で「本質… 本質を大事にすること」とつぶやいた。その言葉は未熟な大学生だった私の心奥に深く突き刺さり、その言葉は10数年たった今も心の中に突き刺さったままだ。あの瞬間から自分の世界を見る目と態度が変わった。本当に大事な言葉をもらったと思っている。

まあ彼との思い出は尽きることが無いが、あまりさらけ出し過ぎるのもなんだかかっこわるい。ここらでやめておこう。

 

渡辺 良

RYO WATANABE 1936-2017

2018年9月14日(金)-20日(木)

12時-18時

元麻布ギャラリー(最寄り:麻布十番駅)

ぜひお越しください。

北京・798芸術区。コンビニギャラリー。

798芸術区はかつては軍需工場をはじめとする広大な工場地帯だったのだが、いつぐらいからか芸術家達が集まり始め、2000年代からギャラリーやアトリエが集積する一大アートエリアとして知られるようになった。ニューヨークのソーホーに例えられることも多いが、年を経るにつれ観光地化されていき、アートというよりエンターテイメントの要素が強まって行ったようにも思う。私が初めて訪れた2010年の時点で有名な観光スポットだったが、それでも若い貧乏なアーティストが共同アトリエで制作に励んでいる姿を見かけたものであった。安宿もエリア内にあり、そこのドミトリーの3段ベッドの一番上を私、その下2つを美大を卒業したばかりの2人が使っていた。彼らとは一緒に食事に行ったり、作品を見せてもらったりなどしていた。またここに来れば会えると思っていたが、その宿は次の年には無くなっていた。

まあそんな思い出話はいいとして、かつての超巨大トキワ荘は依然アートの発信地であり続けてはいるが、観光地化も著しい。その一方でテクノロジーの先端エリアの様相も垣間見せる。エリア内にはドローンで有名なdjiのショップや、ヒュンダイのブランド体験スタジオ、隣の751デザインパークにはアウディとフォルクスワーゲンの研究所がある。

いろいろ先端のものが集まっているみたいだが、その中でも「これは!」と思ったのが、“コンビニギャラリー”である。まずは写真をご覧いただきたい。

     

「24時間 Lin 隣家便利店」という名前のようである。そしてその下に「Songyang art + collection」とある。最初これはこういうインスタレーション作品なのかな、と思ったのだが、どうも本当にコンビニらしい。

ご覧の通り、コンビニはコンビニなのだが、壁に何枚も絵が飾られていてまるで展覧会のようである(絵の前に商品を置いているのが雑だが)。近年日本でもコンビニがフィットネスジムやコインランドリーを併設するなどのトレンドがあるが(ちなみに神保町には卓球場の併設されたファミマがある)、アートギャラリーとのコラボとは…面白い。ギャラリーを兼ねているカフェなどは多いが、コンビニで絵を見るという発想は全く無かった。みんながみんな絵を見るわけではないし、そもそもコンビニはじっくり絵を見る場所ではないが、生活の場にアートが存在するというのが大事だ。アートは置かれるだけで場の空気を変える力がある。ぜひ日本でも始めてほしい。儲からなさそうだがコストもかからなさそうだし。

あと他に面白かったものを少しばかり。

これはコンビニギャラリーではなく、コンビニっぽいアートである。農夫山泉という国民的ミネラルウォーターがあるのだが、それに重金属が混入していたニュースをモチーフにした社会派アートである。詳しいことは知らないが、金にもならないことをチャレンジするのは大したもんだ(適当)。

工事中の一角の外壁、近づいてよく見るとなんと麻雀牌。なんと馬鹿げたアイデア。見た瞬間とても嬉しくなってしまった。ちなみに中国の麻雀牌は日本のより少し大きい。

上の部分はダイスというこだわり。しかし一体何のテナントが入るかは知ることができなかった。流石に賭博場ってことは無いと思うが…

 

最近はエリア北側にある草場地芸術区の方がアートスポットとしてはあまり観光地化されすエッジが立っているとも聞く。また、798芸術区に隣接する751デザインパークは工場好きの人にはたまらない場所である。751デザインパークは今回訪れたので、いずれ写真をつらつらと掲載したいと思う。

ZUCK個展『CHITA!』

桑沢デザイン研究所の同期で現在イラストレーターとして活躍中のZUCK(ずっく)さんの新作個展にお邪魔してきました。ZUCKさんは2016年に東京おかっぱちゃんハウスで開催された個展がとても素晴らしかったので、今回の新作個展も楽しみにしておりました。

阿佐ヶ谷のVOIDにて

思えば彼は学生の頃は昭和レトロなイラストを描いていた。卒業して10年近くたつが、描きたいものをずっと描き続け、少しづつ変化していって自分だけの絵に到達したように勝手ながら私は思う。どこかで見たような、でも初めて見るような。つかみどころの無い不思議なイラストである。何にせよ絵はとても上手いと思う。

以下個展のフォトレポートを。ブレてたり映り込みだったり、撮る側がヘタクソで申し訳ない。

ご本人の人柄と似ている。誰でも受け入れる人だが本心をぶつけてくるわけでもない。本心の底が深いのか浅いのかも分からないお方だ。

 

ZUCK個展『CHITA!』 http://void2014.jp/archives/2228

阿佐ヶ谷VOID

2018年7月19日(木) – 7月29日(日)
Open 【火〜木, 日】15:00-21:00 【金〜土】15:00-23:00 / 月曜定休 / 入場無料

ずっくwebサイト http://zuckjp.net/

 

VOCA展2018

私はグラフィックデザイナーをやっているのでやはり立体作品や映像作品より平面の美術が好きである。ということで絵画や写真など平面美術の領域で活躍する40歳以下の作家の展覧会であるVOCA展、観に行ってまいりました。一口に平面作品と言っても総勢30人以上の作家による展示なので方向性は色々なので必ず自分が気に入るものが見つかりやすいとも言える。

前川祐一郎「column」ほか

私の展覧会の見方というのは、まず1周ぐるっと全体を見て回ってそこである程度気になったものに目星を付けて、2周目でそれらを中心にじっくり見て回る、というやり方なのだが、この作家の作品は周りの作品と比べるととても控えめで、実は1周目では記憶に残らなかった。しかし2周目でこの作品、なにか輝きというか彩りを覗かせるな、と思いじっくり鑑賞してみようとなった。

この作品はキャンバスに油彩で描かれた抽象画である。ラフなタッチでざざざっ、しゅしゅしゅっ、と筆を走らせている。彩度を抑えたカラーリングは落ち着いており(しかしカラフルにも感じる)、おそらくこれが最初地味さを感じさせたのだろうが、このラフに走らせた色同士の重なりが響き合い淡やかな奥行きを感じさせる。見続けているといろんな発見があり、様々な彩りがぽつぽつと顔を覗かせる。広い世界を感じさせるのではなく何というか…こじんまりとした裏庭を眺めているような自分だけの楽しみみたいな感覚を覚えた。

同時開催の津上みゆき「時をみる」>

VOCA展と同時開催されている津上みゆきの展示も素晴らしかった。

風景を元にした抽象画、というのだろうか。たとえば人工知能にこの絵を見せても何が描かれているかは判別不能だろう。だから抽象画だ、とも言える。しかしそれでもこれは風景画だと私は思う。見ていると街や自然の中に降り立ったような感覚になるからだ。

作品からは一瞬~時期という幅のある時間感覚を覚えた。長さの感覚は様々だが、固定化された瞬間ではなく、とにかく動きや流れというものがあった。そしてそこには記憶・思い出と言った。昔行ったことのある場所へ久しぶりに訪れるとふっとその場所ですごしたときの記憶、思い出、感傷などがよみがえることがある。それと似たような感覚。

風景を見るように意識が入り込んでいけるような絵。

入り込むと昔得た感傷が立ち上ってくる、そんな絵。

上野の森美術館による序文が素敵だった。

「生命感に溢れる豊穣な色の世界とともに、それぞれの絵に流れる時間を感じていただければ幸いです」

まさにこのとおりの作品だった。

自分は趣味で絵を描くのだが(デザインとは全く違う活動として)、前川氏津上氏の作品は自分もこういう絵を描きたいと思わせるものだった。